PKのサイド変更。15年前、宮本恒靖が大胆な進言に至った本当の理由
2019年アジアカップが始まった。森保一監督率いる日本代表は、2011年大会以来の王座奪還を目指して厳しい戦いを続けている。
アジアカップで日本が初めて優勝したのは、地元開催の1992年大会だった。以降、2000年大会(レバノン)、2004年大会(中国)、2011年大会(カタール)と計4度、アジアの頂点に立っている。なかでも、今なお多くの人々に語り継がれ、激的な勝利の連続だったのが、2004年大会である。
同大会に臨んだ日本代表の主将・宮本恒靖(現ガンバ大阪監督)は、当時を振り返って、「非常に難しい大会だった」と語る。だが、そのチームには、国際大会を勝ち抜くための”不変の真理”とも言えるものが備わっていた――。
宮本は15年前のアジアカップ初戦のことを、昨日のことのようにはっきりと覚えているという。
相手はオマーン。日本が圧倒的に攻めていたが、なかなかゴールを奪えなかった。一方で、その隙を突いてオマーンも鋭いカウンターを仕掛けてきたため、宮本らDF陣は思いのほか守備に追われた。最終的には、中村俊輔が鮮やかに決めた虎の子の1点を何とか守り切ったが、薄氷を踏む勝利だった。
「初戦のオマーン戦は、本当に苦しい試合でした。俊輔のゴールで勝ったけど、攻守に課題が残り、この大会の難しさをあらためて感じました」
それでも、続くタイ戦は4−1と快勝し、グループリーグ最終戦のイラン戦は引き分け以上で決勝トーナメントに進出できる状況だった。それはイランも同様で、このグループリーグ最終戦における両チームの思惑は合致していた。そのため、試合のラスト5分は両者ともガードを下ろし、最後は日本がボール回しているなか、笛が鳴った。
「今にして思えば、(ロシアW杯の)ポーランド戦のようだったけど、あのときは(グループリーグを戦った)重慶にとどまって(準々決勝の)試合をするために、『このまま(0−0)でいい』と腹をくくった」
グループリーグ首位通過を決めた日本は、そのまま重慶で準々決勝を迎えた。対戦相手はヨルダンだった。
「(グループリーグ)3試合を戦って、ひとつも負けなかったので、ある程度は”やれる”自信を持っていました。それに、試合をこなすごとに重慶の反日感情がエスカレートしていったので……。
バスを囲まれたり、罵声を浴びせられたり、あんなに感情をむき出しに(非難)されたのは、国際試合では初めてだった。だからこそ、あの雰囲気には『絶対に負けない』『勝って(罵声を)黙らせてやる』っていう気持ちで、ヨルダン戦に臨むことができた」
しかし、”伏兵”ヨルダンに苦しめられた。
ヨルダンは日本を研究して、4−3−3システムを採用。日本の攻守の生命線であるサイドを封じた。そして前半11分、先制点を奪われた。
反日感情が高まる一方のスタジアムは大いに沸いたが、逆に日本の選手たちはそれで目を覚まし、3分後に鈴木隆行がゴールを決めて同点とした。ただ、その後はこう着状態が続いて、試合は1−1のまま終了しPK戦に持ち込まれた。
先攻の日本の一番手は中村だった。
チームでもっともPKがうまい選手である。中村はボールをセットすると、短い助走から右足を踏み込んで蹴ろうとした。その刹那、踏み込んだ芝がずれて、ボールはクロスバーを大きく越えていった。
大事な1本目を外してうなだれる中村に、宮本は「顔を上げろ、俊輔」と声をかけた。そのとき、宮本の脳裏には、あるPKシーンが頭に浮かんでいた。
「俊輔が(PKを)外したとき、あのアジアカップの直前に開催された2004年のユーロで(イングランド代表の)ベッカムが足もとの悪いなか、(PKを)上に蹴って外したのを思い出したんですよ。2番目のアレ(中村と同じ左利きの三都主アレサンドロ)も同じように芝がずれて外す可能性がある。その際にはレフェリーに『フェアじゃない』と言いに行こうと思っていたら、やはり想像していたとおりになりました」
中村に続いてPKを外した三都主が茫然としているなか、宮本はレフェリーにこう言った。
「この芝の状態は悪い。これは、フェアじゃない。逆サイドでやろう。今なら、あなたの判断だけじゃなく、マッチコミッショナーにも判断を仰げるんじゃないか」

宮本としては、ダメもとで持ちかけた話だった。だが、レフェリーは宮本の提案に反応し「そうだな」という表情を見せて、考え込んだのだ。
実は、宮本はそのレフェリーとは初顔合わせではなかった。何度か国際試合のなかで顔を合わせており、この試合でもいいコミュニケーションが取れていた。そういう下地があって話をしたのだが、宮本自身、まさか自らの提案をこれほどポジティブにとらえてくれるとは思っていなかった。
「ここで負けるわけにはいかないですからね。勝つためにはどうしたらいいのか。そのためには、とにかくヨルダンの流れを止めるというか、間を作ってヨルダンの勢いを止めるのが重要だと思いました。あと、GKの(川口)能活も(ヨルダンの)キッカーのタイミングに全然あっていなかったですからね。
でも、まさか本当に(こちらの提案について)レフェリーが考えてくれるとは思っていませんでした」
熟考したレフェリーは、マッチコミッショナーに確認を取りにいったあと、PKのサイド変更を告げた。
前代未聞の決定に猛抗議をしたのは、ヨルダンだった。PKのいい流れを止められてしまうことに猛烈な危機感を抱いていた。その抗議はあまりにも激しく、ヨルダンのスタッフひとりが退場を命じられるほどだった。
「実はあのとき、(監督の)ジーコも怒っていたんですよ。『ふたり蹴ってから(サイドを)変更するはおかしいだろ』って。『このままやり続けろ』みたいなことを言っていたんですけど、『いや、違うサイドでやるから』と説得しました」
ペナルティースポットが変更され、さらに宮本はレフェリーに食い下がった。サイドを変更するなら、『初めからやり直してほしい』と直訴したのだ。
しかし、それは認められなかった。それでも、宮本の進言は功を奏した。
ヨルダンの2番手、3番手がきっちり決めるなか、日本も3番手の福西崇史、4番手の中田浩二が難なく決めて徐々に流れを引き戻していった。とはいえ、ヨルダンの4番手が決めれば、試合は決着する。日本にとっては絶体絶命のピンチだったが、川口がヨルダン4番手のPKを好セーブすると、俄然風向きは変わった。
「サイドが変わったら、能活の集中力が増していた。流れを変えたい一心でレフェリーに言ったけど、”何か”を変えることはできたのかなって思いましたね」
そして、日本の5番手・鈴木隆行が決めると、ヨルダンの5番手が外してPK戦はサドンデスに突入。日本は6番手の中澤佑二が外して再び追い込まれたが、相手の6番手のPKをまたも川口が右手で止めた。
日本の7番目のキッカーは、宮本だった。
「正直、自分のところまでは『回ってこないだろうな』って思っていました。でも、佑二が外して……。それで、自分に回ってきたんですけど、意外と冷静でした。ゴール裏では(反日感情を露わにした)中国人サポーターたちが騒いでいたけど、PKを蹴るときは(彼らも)視界から消えていた」
このとき、宮本は「ゾーンに入っていた」と言う。
ゾーンとは、集中力が極限にまで高まっていることで、非常に高いパフォーマンスを発揮できる状態のことだ。現役時代、宮本は3回、その経験をしている。2002年6月9日、先発出場を果たした日韓共催W杯グループリーグ第2戦のロシア戦、2009年7月18日、Jリーグ第18節vs川崎フロンターレ戦でオーバーヘッドゴールを決めたとき、そして、このPKだった。
「(PKを蹴る際)すごく集中していました。練習では(ゴールの)右に蹴っていて、あまり決まらなかった。だからあのときは、(ボールへの)入り方を変えて、真ん中から(ゴールの)左を狙って蹴りました。
決まったときは、うれしさよりもホッとした。自分が決めたら勝つ、という状況だったら、もっと違うテンションだったと思いますけど、まだ(後攻の)ヨルダンの選手が残っていたんでね」
宮本はハーフライン上に戻るとき、ヨルダンの7番手を務めるキッカーの顔を見た。その表情はプレッシャーを感じているようで、非常に硬かった。
「(ヨルダンにしてみれば)『勝っただろう』という試合が、PKのサイド変更から雲行きが怪しくなった。ヨルダンの選手の動揺を感じたし、途中からは能活が(PKを)止めていたんで、(ヨルダンの7番手も)また止めるかなって思いました」
宮本の期待どおり、川口は相手にプレッシャーをかけ、怯んだヨルダンの選手はPKをポストに当てた。
その瞬間、選手が川口を取り囲んで、大きな歓喜の輪ができた。崖っぷちに立たされた状態から、日本は奇跡的に準決勝進出を決めたのである。

「あの勝利には興奮しましたね。悪い流れの試合を勝って、何とか重慶でのラウンドを乗り切れた。
この勝利の背景には、ベンチにいた(藤田)俊哉さん、(三浦)淳宏さん、マツ(松田直樹)とか、モチベーションを落とすことなく、チームのためにやってくれていた控え選手の存在がありました。力のある選手ばかりで、すごく心強かったし、その分(試合に出ている)オレらは『しっかりプレーしないと』という思いが強かった。
そこに、劇的な勝利が重なって、チームにポジティブな空気が生まれた。ここから、チームがどんどん変化していきました」
大会前、今ひとつまとまっていなかったチームは、徳俵に足がかかった状態からの逆転劇で息を吹き返し、急速なまとまりを見せ始めた。チームがひとつになるきっかけをつかんだのだ。
「ヨルダン戦の勝利が”劇薬”となって、チームに好影響を与えてくれた」
宮本は、この先も「イケる」という手応えを感じたと言う。
だが、次の準決勝、日本はさらなる試練にぶち当たる。
2004年アジア杯準決勝、奇跡の逆転勝利をもたらした宮本恒靖の独断

2004年アジアカップ中国大会――。
日本は準々決勝でヨルダンとのPK戦に及ぶ死闘を制して、準決勝進出を決めた。
戦いの場は重慶から済南へと移ったが、反日感情を抱く地元民の、日本代表への苛烈なブーイングや邪険にする姿勢は、とどまるどころか、さらにエスカレートしていた。
準決勝の相手はバーレーン。ウズベキスタンとの準々決勝では、日本と同じくPK戦までもつれた試合をモノにして勝ち上がってきた。それでも、日本がヨルダンと戦った前日に試合を終えており、移動を含めて中2日で試合に臨む日本より、スケジュール的には1日余裕があった。
そうした日程面での違いもあってか、日本はヨルダン戦以上に苦しい展開を強いられた。前半6分に先制され、同40分にはMF遠藤保仁がレッドカードを受けて退場してしまったのだ。
「正直、体はきつかったですね。スタジアムの雰囲気も重慶のときと変わらなかったし、いろいろあってギリギリの勝利だったヨルダン戦から中2日で、またも相手に先制されて……。しかも、ヤット(遠藤)が退場。また『今日も何かあるのか』っていう感じでした」
宮本恒靖は、あのときの試合のような厳しい表情を見せて、そう言った。
実はこのバーレーン戦の前日、試合の入り方について「選手みんなで確認した」と宮本は言う。
それまでの試合では、立ち上がりから相手に押し込まれると、ズルズルと下がってしまっていた。その結果、グループリーグのタイ戦、準々決勝のヨルダン戦と、相手に先制点を許してしまった。そこで、「暑いし、疲れているのはわかるが、もっと前から守備をして、積極的な試合の入り方をしていこう」と、出場メンバーで共通認識を持つようにした。
しかし、再び先制ゴールを奪われて、なおかつ、10人での戦いを余儀なくされてしまった。前半は0−1で終了し、かなり厳しい展開となった。
それでも後半、地力で勝る日本は中田浩二が同点ゴールを決めて、玉田圭司のゴールで逆転した。ひとり少ない状況にありながら、流れを引き戻したかのように見えた。ところが、後半26分にミスから失点して同点に追いつかれると、後半40分、ついに逆転ゴールを許した。
逆転されたショックと疲労で、選手たちはがっくりと肩を落とした。そんななか、宮本はポジティブな思考でいた。
「あの時間帯で逆転されたことは、たしかに厳しいなって思いました。でも、大会に入ってから(厳しい状況のなかで)グループリーグを勝ち抜き、危うかった(準々決勝の)ヨルダン戦にも勝って、なにか難しいことが起こっても、それをひっくり返す力が(今のチームなら)あると信じることができたんです」
刻々と時間が過ぎていくなか、勝つためにはどうしたらいいのか――宮本はボールを追いながら、懸命にその策を絞り出そうとしていた。すると、パッとひらめいたという。
「(中澤)佑二、前に行こう」
ジーコ監督からの指示ではなく、宮本は自らの判断でセンターバックの中澤に前線に行くように命じたのだ。
「2002年日韓共催W杯の(決勝トーナメント1回戦の)トルコ戦で、0−1で負けていたときに、ベンチから指示がなくても、マツ(松田直樹)を前に上げるとか、ロングボールを入れるとか、最後に変化をつけることができなかったかなって思ったんです。そういう経験が自分の引き出しの中にあったので、ベンチからの指示を待つことなく、佑二に『前へ行け』と伝えた」
宮本の咄嗟の判断は、ヨルダン戦でPKのサイド変更をレフェリーに伝えたときと同じように、「ここでは負けられない」「勝つためにはどうしたらいいのか」という考えから、逆算して導き出したものだった。だが、他の選手にとっては「えっ?」という予期しないものだった。
実際、このバーレーン戦の試合後、前線でプレーすることを指示された中澤は、「あの時間帯だし、ツネさん(宮本)に言われなければ、絶対に前には上がらなかった」と語っている。つまり、それほどの”奇策”だったのだ。
そして後半45分、その中澤の頭から同点ゴールが生まれた。左サイドの三都主アレサンドロからのニアへのクロスを、低い体勢で飛び込んで決めた。
この中澤の起死回生の同点ゴールに、宮本は何か神がかったものを感じたという。まさに奇跡的なゴールだったが、その得点への呼び水となったシーンを宮本が振り返る。
「佑二に『上がれ』と指示したあと、MF西(紀寛)がDF加地(亮)と代わってピッチに入ってきたんです。西は、それまで全然試合に出られなくて、悔しい思いをしていたんですが、(楢崎)正剛ら他のベンチメンバーたちがベンチの前に出て、ピッチを駆ける西を応援していたんです。それを見たとき、最初から試合に出ているオレらは、『絶対に結果を出さなければ』という思いが一段と強くなりましたね」
その気持ちが、中澤のゴールにつながった。

延長戦に入ると、玉田らスピードのある選手がバーレーンの守備陣を翻弄。延長前半の3分に、その玉田が勝ち越しゴールを決めた。
その後、バーレーンの怒涛の反撃を受けて、何度も決定的なチャンスを作られた。しかし、どんな力が働いたのかわからないが、バーレーンのシュートが日本のゴールを割ることはなかった。
4−3。日本は再び奇跡的な勝利を飾って、決勝進出を決めたのである。
崖っぷちに立たされたヨルダン戦、苦難の戦いを強いられたバーレーン戦。2つの試合を終えて、宮本が見たものは、大会前とは異なる”成長したチーム”の姿だった。
「やっぱり、難しい試合を勝ち切ることで自信がついた。『絶対に負けない』って、チームみんながそう思っていたし、そう信じることができた。それと、先発メンバーとサブメンバーとの温度差がなくなった。
最初は、温度差があるのは仕方がないんですよ。でも、勝っていくたびに、チームがひとつになっていった。そうして、苦しい試合でも『引っくり返すことができる』というポジティブな思考を持って戦えるようになるんです。それが、チームの成長かな。
どういうイメージか? う〜ん……初戦からバーレーン戦までは、こう(小さく)渦巻いていたものが、どんどん大きくなっていく感じですね」
宮本は、ジーコ監督にも変化が感じられたという。
「みんなをモチベートするのは、(前任のフィリップ・)トルシエ監督がすごくうまかったんですけど、ジーコ監督も試合を重ねるごとに、選手の気持ちを盛り上げてくれるようになった。準決勝の試合前とか、情熱的なことを述べて(ジーコ監督が)持っている言葉の重みを感じました」
選手個々の結びつきが堅固になり、日本代表は本当の”チーム”になった。
あとは、決勝を残すのみである。
「(相手は)中国しかないと思った」
バーレーン戦の試合前には日の丸が路上で焼かれ、試合後には日本代表のバスに向けて、飲料水の缶やペットボトル、さらにはパイプ椅子などが投げつけられた。スタジアムに応援にかけつけた日本のサポーターも、中国人民軍に守られてはいたが、いろんな物を投げられたりして、危険な目にあっていたという。
「選手たちも(サポーターが危険にさらされたとか)そういう話を聞いていたんでね、そんなことをされて『絶対に負けられない』『中国、(決勝に)出てこい』って、みんながそう思っていました」
日本代表の面々は、日本の試合よりも3時間遅れでキックオフした中国vsイランの試合を宿泊先のホテルのテレビで見ていた。PK戦に及ぶ激戦となったが、宮本ら選手全員の望みどおり、中国が勝ち上がってきた。もっとも戦いたい相手との対戦が決まり、チームのムードはさらに増した。
そして決勝前夜、宮本ら選手たちは、こう闘志をたぎらせていたのである。
「(中国人のファンで埋め尽くされた)満員のスタジアムを、静まり返らせてやろう」
宮本恒靖が語る、アジアカップで優勝するために必要な「2つの条件」
2004年アジアカップ中国大会の決勝は、北京の工人体育場で行なわれた。スタンドは6万を超える観衆で埋め尽くされていた。
スタジアムに向かう日本代表のバスには、ブロック片が投げつけられ、沿道から容赦ないブーイングが浴びせられ続け、また日の丸にも火がつけられていた。その異常な光景をバスの中から見ていた宮本恒靖は、燃え滾(たぎ)る闘志を抑えるのに必死だった。
まさしく完全なアウェーのなか、「この満員のスタジアムを黙らせてやろう」とあらためて決意したのだ。
試合は前半22分、福西崇史のゴールで日本が先制したが、すぐに同点ゴールを奪われる。スタジアム内で大歓声がこだまし、ピッチ内の声は通りにくくなり、スタンドの中国人ファンから放たれる”圧”はマックスに達していた。
しかし、宮本は「必ず勝てる」と思っていたという。
「試合前に『負けるはずがない』――そう思って、試合に臨むのは初めてだった。そのくらい自信があった。それは、大会を勝ち進んでいくごとに『この時間帯はこうしよう』とか、選手みんなが同じことを考えられるようになっていたから。
それにここまで、苦しい試合を経験し、勝ってきたことで、チーム内に一体感が芽生えて、選手間の信頼関係も深まった。試合展開も、ヨルダン戦やバーレーン戦に比べると『ぜんぜん楽だな』という感覚があったので、同点にされても不安や焦りなどはまったくなかった」
日本はその後も落ち着いてゲームを進め、後半20分に中田浩二のゴールで再びリード。さらに、アディショナルタイムに玉田圭司がダメ押しゴールを決めて3−1で勝った。それまでの苦戦がまるで嘘のような、余裕の勝利で優勝を飾った。
宮本ら日本代表の選手たちが歓喜の声を上げるなか、スタンドを埋め尽くしていた中国人ファンはぞろぞろと出口へと向かっていった。
「本当は、満員の観衆のなかで優勝カップを掲げたかったんですけどね」
宮本は主将として、優勝カップを掲げられる栄誉を存分に噛みしめ、優勝したこのチームを誇りに思った。

あれから、15年が経過した――。
今、森保一監督が率いる日本代表がアジアカップを戦っている。あの15年前の優勝経験から、同大会を勝ち抜くポイントはどこにあるのか、宮本に聞いた。
「難しい試合が続くと思いますけど、ターニングポイントになる試合が必ずあるんですよ。自分たちのときは、ヨルダン戦、バーレーン戦がそうだった。前回の2015年大会では、PK戦となった準々決勝のUAE戦で(6人目の)香川(真司)がPKを外して負けた。そういう大事な試合で勝ち切れるかどうか、ではないでしょうか」
優勝経験者の言葉は確かだ。
2004年中国大会以来、2大会ぶり4度目の優勝を飾った2011年カタール大会でも、厳しい試合を勝ち抜いての戴冠だった。準々決勝のカタール戦では、DF吉田麻也が退場。数的不利な状況のなか、最後は伊野波雅彦が逆転ゴールを奪って勝った。さらに準決勝の韓国戦では、PK戦にまでもつれ込んだ激闘を制した。
2004年中国大会と同じく、準々決勝、準決勝の2試合がポイントとなった。とりわけ、常に相手に先手を許す苦しい戦いとなったカタール戦の勝利が大きかった。劣勢の試合を勝ち抜いてきたことが、決勝進出につながった。
そうして、延長戦に及ぶオーストラリアとの死闘を制して優勝した。
UAEで開催されている今大会でも、決勝トーナメントに入ってから、ターニングポイントとなる試合がやってくるだろう。日本が5度目の栄冠を手にするためには、そのゲームをモノにできるかどうかが重要になる。
宮本はもうひとつ、チームが勝ち抜いていくためには大事なことがあると言う。
「チーム構成は、大事だなって思いますね。2010年の南アフリカW杯の際には(川口)能活が(チームを)引っ張って、まとめていたじゃないですか。そういう選手の存在って、とても重要なんです。
やっぱり、試合に出られない選手は不満が募るんです。『どうせ、試合に出られないしなぁ〜』と思ってしまう。そのとき、ベテラン選手などが『そうは言うけど、やるべきことをしっかりやろう』と言えるかどうか。そういう選手がいるかどうか、ですね。
でも逆に、そこで(サブ組の誰もが)『やってられない』といった状況になってしまうと、チーム全体の雰囲気が悪くなる。だから、メンバー構成によって(チームを)まとめられる存在、そういうベテラン選手がいることは非常に大事だと思います」
2004年大会では、藤田俊哉をはじめ、三浦淳宏らベテランが試合に出場できないなか、日々のトレーニングを黙々と消化。試合になれば、出場メンバーたちを献身的にサポートした。その姿を見て、若手のサブメンバーたちもふて腐るようなことなく、チームを盛り立てた。
おかげで、ピッチに立つ宮本らレギュラー組も、試合で存分に力を発揮することができた。藤田や三浦らベテランが、まさに戦いやすい環境を作ってくれたわけだ。
現在アジアカップに臨んでいる森保ジャパンであれば、その役割を果たせるのは、青山敏弘か、戦列を離れた中島翔哉に代わって急遽招集された乾貴士あたりになるのだろうか。

もちろん、そのうえで試合に出場する選手個々が力を出し切らなければ、アジアカップは勝ち抜けない。はたして、森保ジャパンはどこまでいけるだろうか。
「今のアジアのレベルは以前よりも確実に上がっているし、出場国間のレベル差が少なくなってきている。その一方で、(強豪国となる)オーストラリアにすごいタレントがいるかというと、そうでもない。では、韓国はどうか? と聞かれても、以前ほどの強さは感じない。そこに、日本が劣っているとは思わない。
今の代表メンバーには、堂安律とか有望な若い選手がいて、お互いに切磋琢磨できる環境にありますし、アジアカップを知る長友佑都や吉田麻也らが彼らを支えて、大会中にいい流れを作ることができれば、結果は残せると思います。勝利にこだわって、アジアでの地位を築いてほしい。それが、その後のW杯予選にも必ずつながっていくので」
事実、2004年のアジアカップ優勝は、その後に続くドイツW杯予選を戦うチームのベースとなって、結果にもつながった。最終予選では、アウェーのバーレーン戦を制し、無観客試合となったタイでの北朝鮮戦にも快勝。最後のイラン戦を残してW杯出場を決めた。
「(アジアカップで)苦しい大会を勝ち抜いて優勝できた、という成功体験はみんなと共有される。最終予選でも『何があっても乗り切れる』という自信を持って戦えるようになるんです」
だからこそ、宮本はドイツW杯でも、アジアカップでの成功体験を生かすことが大事だと考えていた。ゆえに、本大会直前の合宿が始まった時、代表選手みんなにこう告げた。
「あのアジアカップの雰囲気を、もう1回作り出すことがこの大会(ドイツW杯)での成功につながると思う。みんなで一緒に、その雰囲気を作っていこう」
だが、宮本の意に反して、選手たちの反応は鈍かった。
2004年アジアカップ優勝チームは国内組中心だったが、ドイツW杯に挑むチームは主力の大半が海外組となっており、メンバーの顔ぶれはかなり変わっていた。つまり、奇跡を起こしたチームの雰囲気を知らない選手が多かったのだ。
そのためか、宮本はドイツW杯で苦い経験をすることになる。
「選手は控えになると、どうしても”負”の要素が出てくる。でも、試合に勝つこと、チームが結果を出すことで、”正”が”負”を覆うようになっていく。それを、実体験できたのが2004年アジアカップであり、その逆だったのが2006年ドイツW杯でした。ともにしんどかったけど、そのふたつを経験できたことは、サッカー人として大きな財産になっています」
ドイツW杯での敗北は、チームの一体感を醸成できなかったことが大きな問題のひとつとなった。2002年日韓共催W杯や2004年アジアカップでの成功例を、その後に続く大事な舞台で生かすことができなかったのだ。
今、UAEでアジアカップを戦う日本代表は、2大会ぶりの優勝を果たし、2022年カタールW杯アジア予選へとつながるチームのベースを作ることができるだろうか。
宮本は言う。
「どうチームが変化していくのか、楽しみにしています」